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メサ台地に伝わる史跡をめぐる
タイムトラベルへ、いざ!

国指定の貴重な歴史遺産が集積する
史跡天然記念物 屋島

かつて海に浮かぶ島だった屋島。その独特の形状と地形から、古来より日本の歴史上、重要な役割を担ってきました。古く飛鳥時代には日本書記に登場する「屋嶋城(やしまのき)」として、また平安時代の終わりには源平合戦の地として、様々な歴史の軌跡を見届けてきた屋島。1934年(昭和9年)には国の史跡及び天然記念物に指定され、今なお多くの史跡や伝説が残っています。その地をめぐりながら、時代絵巻を紐解いてみましょう。

海上交通の有力者が眠る?
長崎鼻古墳(ながさきのはなこふん)

屋島に残る遺跡のうち最も古いものが、5世紀初め頃につくられた前方後円墳「長崎鼻古墳」です。屋島の先端にある長崎ノ鼻(標高50m)にあり、全長は約45m。墳丘は3段構成で、各段には墳丘が崩れないように葺石が葺かれています。周辺には集落等が無く、海を見下ろす墳丘からは阿蘇溶結凝灰岩製の舟形石棺が発見されたことから、海上交通に関わっていた豪族の墓ではないかと考えられています。




歴史ロマンをかき立てる山城
古代山城屋嶋城(こだいやましろやしまのき)


その後、大和朝廷が治める「倭(やまと)」と呼ばれていた時代には、現在の中国や朝鮮半島など東アジア諸国からの侵攻に備え、九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて多くの山城が築かれます。その一つが、古代山城屋嶋城です。


日本書記にも記された、貴重な遺構

当時、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅(こうくり、くだら、しらぎ)という3つの国が争っていました。倭は新羅と唐(現在の中国)の連合軍に滅ぼされた百済に援軍を求められ、663年「白村江(はくすきのえ)の戦い」に参戦するも敗北。その後中大兄皇子は国を守るため、交通の要所に城を築かせました。『日本書記』にも「倭國に高安城、讃吉國山田郡に屋嶋城、対馬國に金田城を築く」という記述が残っています。


なぜ、屋島に古代山城が築かれたのか?


古代の屋島は備讃瀬戸に浮かぶ島であり、「メサ」と呼ばれる切り立った溶岩台地でした。その瀬戸内海を一望できる抜群の立地に加え、切り立った断崖が連続する独特の地形が自然の要塞となり、城づくりに適していたのではないかといわれています。屋島は北嶺と南嶺の2つからなり、屋嶋城の遺構が確認されているのは、現在のところ南嶺山上と標高100mほどにある浦生(うろ)地区です。



約1350年の時を超え、幻の城が甦る


屋嶋城の調査研究は大正時代から行われてきましたが、その実態を特定することが難しく「幻の城」と呼ばれてきました。そんな中、平成10年に山林に埋もれた石積みの一部が発見され、これを機に高松市教育委員会が発掘調査を開始しました。そしてついに平成14年、城門が発見され、屋嶋城が実在したことが証明されました。



全長7㎞に及ぶ、最大級の古代山城


自然の地形を最大限に活用した屋嶋城は、全長7kmにわたる国内最大級の城壁を有し、そのうち約1割が人工的に築かれたものと考えられています。城門跡には朝鮮半島の城づくりの技術を裏付ける「懸門(けんもん)」や「甕城(おうじょう)」などの遺構も残っています。こうした貴重な歴史遺産を未来に伝えるため、平成19年度から高松市により修復工事が行われ、平成28年から「屋嶋城跡」城門の一般公開が開始されました。
とはいえ、屋嶋城の調査は、まだまだ始まったばかりです。未だ多くの疑問が残され、謎のに包まれた古代山城屋嶋城は、今後も歴史ロマンを大いに掻き立ててくれそうです。



鑑真和上が開創した屋島寺の前身寺院跡
千間堂跡(せんげんどうあと)


四国霊場八十八ヶ所第84番札所である屋島寺は754年、日本の律宗の開祖・鑑真和上が都へ向かう途中来山し、北嶺に創建したと伝えられています。その後、815年に弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島寺を訪れ、北嶺にあった伽藍を現在の南嶺に移したと伝えられていますが、その実体については分かっていませんでした。平成11年度の調査により、北嶺の森の中で、基壇を持つ建物跡と仏具である多口瓶(たこうへい)が出土し、寺院の跡地だったことが判明しました。現在も北嶺芝生広場を中心に「千間堂」という地名が残り、礎石建物跡や集石遺構等も確認されています。